昭和54年08月30日 朝の御理解



 御理解 第94節
 「信者に不同の扱いをすな。物を余計に持って来ると、それを大切にするようなことではならぬ。信心の篤いのが真の信者じゃ。」

 取次をさしてもらう者に対する御理解でございましょうけれども、昨日例えば一日の事を振り返ってみまして、もう何というでしょうか、合楽の場合は日々がバラエティ-に富んだと言う様な日々です。作日は若先生と末永先生が、本部から三矢田先生が見えておるというので参りました。それから大塚さんのお婆ちゃんの百日祭、それから敬親会でしたから。もうその敬親会に立たなければいけないというところには、どうでも私じゃなければならん人が次々とお参りして参ります。
 昨日は日奈久教会の月末御礼日でもございますから、信者さん方をお二人でしたかね、同道で富永先生が参られた。でそこへあのう熊ノ庄の吉田先生がそれこそ、おそらく十年振りぐらいでお参りになった。それでもうちょうど霊様の御挨拶は、昨日正奉仕の先生がおかげを頂いた。それで私は敬親会の方へそれで先生方も、皆んな来とりました先生方も一緒にま研修させて頂いて、それからちょうど敬親会の日に百日に当たっておると言う事は、もう母の霊の働きを感じずにおられない。
 亡くなった事も神乍らならば、こうした五十日祭もそうでしたが、五十日祭なんかがちょうど何かそう言う何かがございましたが、そうそうあのう丁度ここへ皆さんで、あのう出て来ようとしょるところへ、近所からそれこそ知らずに沢山花を頂いたという、そのお花の中に私は知りませんでしたけど、極楽鳥という花が入っとって、その事が御理解だったんです。
 昨日もそんなわけでちょうどお年寄り仲間のね、友達の集われる日に今日当たっている事だからと言うので、まぁいろいろなものを作って、いろんなお供えをそのうあを敬親会の方達に出して頂きたいというので、娘さん達嫁さん達も皆んな一緒におかげを頂いた。まぁそれで先生方のお話を聞かせて頂いて、昨日は四時の御祈念に合わせて、久保山のお母さんの立ち日ですね、いわゆる帰幽日ですから帰幽祭を久富先生が御用されて、それであちら終わってこちらへ出て来たら、丁度そのお祭りが済んでおる処でした。
 こう思うてみて、例えて言うならば久保山と言えば、まぁ合楽の名門と言う風に言われるのですけれども、だから私がお祭りをせんならんと言った様な事は、これはやっぱりおかしいでしょうね。もうそれこそ流れるように次から次とですね、もう大塚さんのは正奉仕の人でよか、と言った様な事じゃない。もうそこら辺の所がね、人間心を使わんで済むそれも流れるような、言うなら働きというものがすべての中にずうっと込められておる。だから人間心を使わんで。
 昨日も久保山さんなんかの場合は皆んな、あのう兄弟達も皆んな集まっとりましたし、まぁいうならば私がちょうど四時の御祈念はいつも私がするから、私がしたが本当のごたるけれども、あぁいう会合のときには私が致しません。それであのう久富先生が御用を承って、それで私共は敬親会の方もまた先生方のあとの話合いも、そうしょる所へあのう高松和子さんが修行に、この学院に行っている間に行った教会の落合教会ですか。そこの先生がひょっこりそのう訪ねて見えられた。
 それでまぁ御一緒にあのう夕食を皆んな先生方に差し上げた事でございましたが。一日の事をいわば振り返って見てね、あそこはあんな事じゃいかじゃったろう、こんなこっちゃなかったであろでなくても、神様の働きそのものがね、大事にするとかしないとかそういう事ではない。一つの段取りというものが、一日の中にずうっと出来とるということ。私はそういうおかげを頂いて始めて、あのうまぁ今日の御理解で言うならば言うなら神乍らな取り扱い信者に対する取扱いと。
 参拝者に対する取扱いと言う様なものが、出来るのじゃないだろうかと言う風に思わせて、まぁ今日の御理解を頂かせてもろうて思うんですけれども、その一日の事を振り返ってという事なんですけれど、昨日の朝の御理解から、そしてそのう大塚のお婆ちゃんの霊祭のとき、ちょうど私はここについてましたから、その事を御礼申さして頂いておりましたら、頂きました事が『かえりみて』という事を頂くんです。平仮名でかえりみてと言う事を頂く。そしてあのうこのう魚釣針を頂くんです。
 そしてあのうどう言う事かと思うたら、あのう片仮名の『ネ』という字をその横にこう魚釣針の横にこうくっつけて、そしたら礼という事になるでしょうが、こうしとるとに、こちらに片仮名のネをつける。そして昨日の御理解を思うてから私はあのうわからせて頂いたんですけど、顧みてもう八十何才だったでしょうか、八十年間の事を顧みて、もう親先生御礼を申し上げる事ばぁっかりでございますという事ですね。昨日の御理解がそうでしたね、大体普通金光教的にいうと、かえりみて見ると。
 本当にあれもお粗末これもお無礼、もうお詫びばっかり致しております。お詫びする事ばっかりでございます。という事ではない。昨日の御理解を頂きますとね、お詫びをしなければならないと思った事、また忌まわしい事件であったと思う様な事も、泣く事も笑う事も全てがです顧みて見ると、あれもおかげであった是もおかげであったと分からせて頂いて、御礼を申し上げる事ばっかりでございますが。それで次から次とおかげを釣り上げとりますという感じでしょうが、だから信心をいよいよ深く広く。
 例えば昨日当りの御理解を頂いて熊本当りから来た先生が、とくに吉田先生なんかが言ってましたが、こう言う様な表現があるだろうかともう私共は本当に例えば聖者、聖という言葉を使いましたね昨日は。いうなら聖者君子というても良いですけど、そう言う事を目指す事が金光教の信心のように思っておった。ところが金光教の信心は「小人閑居して不善をなす」という、その小人の私共であるということ。それを例えば泉尾の先生当りは、いつの場合でも本当に私の様な鈍物がどうしてこれだけのおかげを頂いたじゃろうかと言われるんです。
 これは小人我を自覚しておられるんです。教祖様は屑の子と言っておられる無学の百姓と言うとられるです。だからこれはねそういう言うならば大衆のいうならば、小人閑居すれば不善をなす様な私達だけれども、神様のおかげを頂いていうならお取次を頂いて、おかげを頂いていく世界というものは、詫びれば許してやりたいと言う親心であると同時に、不善と思うておった事はむしろ御礼を申しあげねばならない事であった。
 昨日の霊様は私の朝の御理解を御霊ながらに、聞いておられたじゃろうかと思わせて頂くような感じでした。八十年間という長い間、そりゃ普通でいうならお粗末御無礼の私でございますけど、今はこうとお詫びばかりじゃなくてからね、もうその八十年間の事をもう顧みて見ますと、御礼を申し上げる事ばっかりでございました。そしてんならあの娘たちが二人夜のごと昨日3人でしたけれども。はぁあのうお供え沢山持ってあのうこうやって来てくれておる。
 もうと言う様なところへですもう本当に御霊様としてはお礼を申し上げることばっかりだとこう言うのです。こりゃまた霊様だけでなく私共も一日を振り返ってみてね、御礼を申し上げる事ばっかり、そこに初めて本当の信者じやと、あれもおかげであったこれもおかげであったと、分かる様になると一人前の信者じゃとこう仰る。昨日の御理解と併せて、例えば今日の御理解を味わって下さい。顧みて御礼を申しあげる事ばっかり、同時に私共の場合は願わなければならない事もまた沢山あるから。
 それこそお願いばっかりという事にもなりますけれども。締め括ってみた時には一日なら一日を、なら大塚のお婆ちゃんの場合は、八十何年間という一生を振り返ってみてです、本当に御礼を申し上げる事ばっかりで、それも昨日の朝の御理解を頂いて、御霊がなんか心を開いたような感じが致します。お互いも心開かにゃいけません。昨日の御理解をもう一篇一つあのう思い出してね、あのとにかく私は間口が広いと申しましたけど、間口が広いだけではない、もう深い広いそういう昨日の御理解をね。
 頂かして貰うて成程「小人吾」と言う自覚、それを言うなら助けて下さろうとするなら天地の親神様、何万人に一人あるかないか分からんと言う様な、いうなら聖人聖と言った様な生き方を目指すというのじゃはなくて、どこまでも生神を目指すんだと。生神というのは昨日も申しました様に、それこそ神様都々逸を歌わせ給うという人間らしい人間、人間で生身を持っておる人間が助かっていく手立というものが、教祖金光大神の御教えによってはっきりしてくる訳なんです。
 一日一日を顧みてねこりゃ私共だけではない。言うなら私共がね特別な取扱いをしなければならない人もあります。それはなぜかと言うてならいつも例に取って申し訳ないですけれども、秋永先生と久富先生、まぁだ久富先生が大変お酒を召し上がっとった時分に、私が久富先生には焼酎をつぐ、例えばですよ秋永先生にはおビ-ルをつぐ、えらい不同の扱いをしてござるごたるばってん、決してこれが不同じゃない、それの方が本当なんだと言う事です。
 片一方はお酒が全然飲めない、片一方はもうそれこそアルコ-ル分でさえ何でもよいという。もう現在は全然飲まれませんけれどもね。以前は一つの例としてだからこの人には焼酎飲ませたけんこの人にも焼酎飲ませんならん、この人にもビ-ル飲ませたからこの人にもビ-ル飲ませんならんと言った様な事じゃない。それを例えば昨日私の一日のここでの行われとる事の中からです振り返ってみて。はぁあの人はあれでよかったんだ、この人はこれでよかったんだという。
 いうなら不同の扱いのないそれがしかもスム-ズにね、一日が流れるようにおかげを頂いておる事からですね。不同の扱いをするなと言う事を私共が間違いますとね、子供にでん大人にでん同じ事をせんならんと言った様な事をまぁ屁理屈をいう人がありますよ、それじゃいけませんもんね。だからそこの辺のところも信心による事になりますと、そういう働きが自ずとそうしなければならんような働きが、ずうっと続いておる間断なしに続いておるという事が言えます。
 信心の篤いのが真の信者じゃと、信心を手篤うさせて頂く、言わば真の信者にならせて貰わなければならない。それは大塚の霊様じゃないですけれども、もうそれこそ過去八十年間をお礼申し上げる事ばっかりであったと言われるように、なら私共が一日を締め括つた時に、本当にあれもおかげであったこれもおかげであったと、お礼が言えれるような信心。そういう広い信心さして頂きたいと思うですね。
   どうぞ。